カレーのにおいに誘われて
私はその時、次の講義までに読んでおかねばならない本があった。本来ならば講義のない午前中のうちに読み終わるはずであったのだが寝坊をしてしまい今に至る。 私は常に規則正しい生活を心がけている。一一ヶ月ぶりの寝坊がこのような日に重なるというのは実に運が悪いと思ってしまう。 しかし、よくよく考えれば昨晩の就寝時間は本来よりも一一分、奇しくも一一分遅れていたのだ。友人とのメールのやり取りに夢中になり就寝を先送りした私に非があるのは明白であり、仕方ないとは言えないだろう。 だとすれば愚痴をいうよりもすることがある、と前向きな思考により肩掛けカバンの中より本を取り出した。 黒い革表紙に金字で表題の書かれた分厚い本である。既に中ほどまで読み進めたのだが、私にはどうにも興味の持てる内容ではなかった。 しかし、次の講義、『近現代文学評論2』を担当する諸岡教授は厳しい人である。出された課題をこなしてこなかったとなれば何を言われ、また、何をされるかわからない。最悪の場合、この一度の失策で落第の判を押される可能性もある。 そういった厳しさもあってかこの講義の受講者は私を含め五人しかいない。ちなみに諸岡教授の厳格な性は本学において有名であるらしくサークル活動などをしている者や友人のある者は氏の講義をとるなと言い聞かされていたらしい。 しかし、残念なことに私には親しい先輩も同学科の友人もおらずその情報を知るすべもなかった。そのために諸岡教授の講義をとってしまったのだ。などとまた愚痴をこぼしたところで、やはりこれも交友関係の構築を怠った私に責があるのだ。 などと紙面の文字列を追いつつ考えていると、私は前方に強い衝撃を受け、反動で後方に倒れた。とっさのことに手を付くこともできず無様に尻餅をついた。その様も大股開きで情けないものである。 どうやら前方不注意から人とぶつかってしまったらしい。 ズボンの埃をはらいつつ立ち上がった私は謝罪をしようと顔をあげたその瞬間だ。 「っ!」 私は思わず声にならない悲鳴にも似た声をあげてしまった。 そこに立っていたのは私の友人である和田理子であった。 彼女は愛らしい顔をにやにやと歪め私をじっと見つめていた。私は気恥ずかしくなり視線を落とした。 「理子さんが二号館にいるのは珍しいですね」 私はうつむいたまま言う。 しかし彼女は何も答えず、かわりになんとも言えない奇妙な息をもらし、しかも抱きついてきた。飛び掛ってきたと形容すべきかもしれない。 両腕を私の首に巻き付け幼児の頭を撫でるかのようにそうする。吐息が耳にかかりこそばゆい。頬をぐりぐりと押し付けられる。 彼女曰く、この行為は充電なのだそうだ。私には理解しがたいものがあった。 私の体感にして一分ほど。実際は三〇秒にも満たないであろうのち、ようやく彼女は私を開放してくれた。 それからニッと歯をみせ、まるでひまわりが咲いたような明るい笑顔で言う。 「歩きながら読書は『めっ!』って言ったでしょう?」 ちいさな弟や妹を叱りつけるような口調であり、私は「お姉ちゃん」というものはこんなものなのかな、と考えたりする。 思い出したように彼女は私の最初の言葉に反応する。 「そうそう。ひっさしぶりだね。なんのためにきたの? なんてつれないことは言わないでね。これからお昼でしょ?」 彼女はかすかに首をかしげた。その仕草はわざとらしさなどとは無縁であり愛らしいと思えた。 どうやら昼食を一緒にとるために私を訪ねてきてくれたらしく、そのことは単純に嬉しかった。 彼女、和田理子と私は同大学の同学年であるが、私が文学部国文学科なのに対し、彼女は理工学部化学新素材研究学科というなにやら小難しい学科の生徒であった。 本学は山を切り出した広大な、それはもう広大な敷地を持ち、その中に教室棟や研究棟などが点在している。 学部学科により利用する棟が違うので同じ大学に通っているといってもなかなか遭遇する機会は少ない。先週の火曜日にぐうぜん同じスクールバスに乗り合わせたのが最後であるから九日ぶりということになる。 言えた義理などないのだが理系などというとどこか野暮ったい姿を想像するかもしれないがそんなことはなく、むしろ彼女はおしゃれさんだと私は思う。 会うたびに見たことのない洋服とアクセサリーを身につけ、髪型もそれに合わせて変えているようだ。以前、洋服を何着持っているのかと尋ねたことがあるが、彼女自身さだかではないらしい。 とはいっても今日はローライズジーンズにシャツに一枚というラフな格好であり、栗色の長い髪を高い位置で結いていた。が、逆に簡素なそれは彼女の魅力的な肢体を浮き彫りにし若い色香を漂わせる結果となっている。 事実、こうして彼女と話している間も何人かの学生が我々の脇を通りすぎていっているのだが男女にかかわらず理子さんにぽーっと見とれた視線を送っていた。 「じゃ、食堂いこ」と理子さんは言い、私の手をひく。彼女の質問に答えた覚えはないが結果は変わらないので黙って従う。 はつらつとした彼女の歩調は身長差も相まって私はついていくのがやっとだ。左手は彼女の右手と結ばれているので半ば引きずられているような状態である。そんな状態であるから読書をするのはなかなか難しい。 手を離すように言えばすむことなのだが、彼女のにこにことした顔を見ているとそんなことを言うのは気が引けた。 ちょうど二号館からでようとした時だ。 とつぜんいい香りが漂ってくる。私と理子さんは顔を見合わせ、その食欲をそそるスパイシーな香りの正体を探す。 それは簡単に見つかり、どうやら前方から向かってくる男子学生が手に持つトレイから発せられているようであった。 理子さんは無造作にその男子学生に近寄り、なにやら言葉を交わす。ちなみに私はといえば彼女らから少し離れた場所に退避していた。 戻ってきた理子さんに私は尋ねる。 「知り合いの方なのですか?」 楽しそうに話をし、別れ際には手まで振っていた姿を見れば私でなくとも親しい仲を想像するだろう。 しかし、彼女はきょとんとした顔で「ぜんぜん」と答えた。 私は理子さんの物怖じしない性格に感嘆しつつ、もはや私と彼女とでは別の生き物なのではないかとさえ思えた。 「じゃじゃーん! 発表があります。あのにおいの正体はあ」 と、理子さんはそこでタメを作る。さらにドラムロールを口ずさみ、 「カレーでしたー!」 言われれば納得の香りである。しかし。 「うちの学食のカレーってあんなのではないと思いますが?」 おしゃれな学食を売りにし一般にも開放しているような大学ではないので、どこにでもある『安くてうまくない』学食である。それはそれである種おもむきがあり嫌いではないが、口内によだれがあふれてくるような香りは有していない。 「なんでも移動販売車? がきてるらしくて校門のとこで買えるんだってさ」 彼女の目は爛々と輝きをみせる。どうやら今日のお昼は学食ではなくなったらしい。 理子さんが元気に「行こう」と掛け声をかける。私はその背中を一生懸命に追いかける。読書と並行するのは難儀だった。 二号館からほど近い一号館。その正面が正門である。 私たちは五分とかからずにそこへやってきたが、移動販売車らしきものは見当たらない。代わりにベンチに、あるいは花壇のへりに腰をかけ先程の男子学生が持っていたのと同じトレイをかかえ、ほころんだ顔で昼食をとっている学生がそこかしこにいた。 理子さんはまたそのなかの一人に近づいて身振り手振りをまじえつつ言葉を交わす。とうぜん私はそこから離れた場所にたたずんでいた。 「六号館のほうに行ったってさ」 理子さんは戻ってくるなりそういった。 六号館からは正門からでは歩くと一五分ほどかかる距離にある。 「ついていませんね」と私が言ったのは六号館が今きた道を引き返した方向にあるからだ。 私としてはこの一言はあきらめて学食に行きましょうというニュアンスをこめたつもりであった。 読まなければならない本もあるので、あまりかかずらわっている時間はない。 しかし理子さんの目には火が灯っていた。口に出して言わずともその目が行こうと行っている。彼女は困難というかなんというかこういう状況になると燃えてくる質があった。天邪鬼ではないのだが無理と言われればやりたくなる。負けず嫌いというのだろうか。私にはよくわからない感覚であった。 わざわざ訪ねてきてくれた友人を無下にすることもできず、私は彼女に従って六号館へ歩を進めだした。 その一五分の間、私はわずか七ページと二行しか読み進めることができなかった。 のみならずカレー屋さんの車の姿はなかった。 理子さんが同じようにその辺の学生に尋ねると八号館へ向かったとのことだ。 六号館から八号館まではまた一五分かかる。しかも、だ。正門前の一号館から六号館には間に二号館、四号館がはさまっての一五分だ。すごろくでいうならば三マス進んだことになるが、六号館から八号館では間に他の館がないため一マス分ということになる。必要な時間は変わらずとも体感的にさらに遠く感じる。 正直な話、私はもう歩き疲れている。たかが一五分と笑う人もいるであろうが、私はもやしっ子なのである。すでに息がはずみだしているのだ。 そういった話を無視しても行って戻って四五分。昼休みは終り、本を読んでいる時間はない。 ここで引き返せばまだ間に合う。三〇分あれば課題の本を読み切ることができる。できるのだ。 「ほら、はやく行こっ」 顔いっぱいで笑顔を作り、声をはずませた理子さんにどうしてわたしが逆らうことができようか。彼女が悪いのではない。彼女の仕草に、声に、ときめいてしまった私がいけないのだ。 私は手に持った本を力いっぱい閉じると、かばんの中にしまった。 そして私は理子さんの手をとる。 「行きましょう! こうなったらとことんです」 ニマ〜っと笑った理子さんが抱きついてきて飛び跳ねる。なにがそんなに嬉しかったのか私にはよくわからない。 しかし、彼女のうれしさは私にも伝播して自然と笑顔になる。 「カレー食べるぞお!」 「おおーっ!」 とつぜん大声を張り上げた私たちに周囲に学生は奇異の目をむけたが私たちは気にならなかった。なぜならバカになっていたからである。 * 一号館から出発した私たちはほぼ校内を一周して正門前に戻ってきていた。とはいっても講堂の建っている場所だけであるが。それでもおよそ二時間が経過している。 結局、私たちはカレーを食べることができなかった。それどころか移動販売車すら見つけることができなかった。 「あああああああああっ、もう!」と、理子さんは奇声をあげた。 午後の講義をまるまる棒にふって広い校内を歩きまわり、それでいてカレーにはありつけなかったのだから叫びたくなる気持ちは十二分に理解することができた。 いや、むしろ私のほうが叫びたい気持ちである。なぜなら諸岡教授は第一回目の講義ではっきりとこうおっしゃっていたのである。一回でも欠席したものに単位をやるつもりはない、と。 その講義を休んだというのに得られたものが疲労だけではわりに合わない。合わなさ過ぎる。 一時のあいだ空を仰いだ後に理子さんがぽつりとつぶやいた。 「……本当にカレー屋さんなんていたのか」 私はあえて彼女の言葉に反応しなかったのは同様の思いが私の中にもあったからである。 事実として多くの生徒はカレーを食べていたのだが、私たちがその影を追うたびに影は去っていく。えんえんと繰り返され、けっきょく私たちは校内を一周しただけなのである。 狐にでも化かされたような気分であった。 不意に腹が音をたてた。 理子さんは唇を尖らせて、またどこかさみしげにつぶやいた。 「カレー食べたかったな……」 そんな彼女の表情を見ると私にはどうすることもできなかったのだが食べさせてあげたっかなと思うのである。 「代わりになるとも思えないのですが、よかったら私の作ってきたお弁当食べませんか?」 本当は学食でなにかを買う必要もなく、また、カレー屋さんを探す必要もなかったのだ。であるが私がそうしたのは――まあ、言うまでもないだろう。 とたんに理子さんはぱあっと顔を輝かせる。 「あの、残り物を詰めてきただけなので期待しないでくださいね」 理子さんはとれてしまうのではないかというほどブンブンと勢いよく首を横に振った。 「ううん。ぜんぜん。うれしいな。手料理が食べられるなんてさ」 ふふ、と小さく笑う理子さん。 「でも、お弁当なんて女の子っぽいよね」 「どういう意味ですか?」 「あは。失礼だったかな?」 「……そんなこという理子さんには食べさせてあげません」 私がむくれると理子さんは楽しそうにさらにからかってきた。 「え! 『食べさせて』くれるつもりだったの?」 わざとらしく「きゃー」なんて言う。 「そ、そういう意味ではありません!」 顔が赤くなるのが自分でわかる。 しばらくの間、理子さんにいいようにからかわれた後ようやくお弁当を食べ始めた。箸はひとつしかないので交互におかずをつまみながらだ。もちろん『食べさせてあげる』なんてことはない。 理子さんはタマゴ焼きをつまむと頬を押さえて笑顔を見せ、 「おいしい」 と、言ってくれた。 私もつられて笑顔になる。午後の講義を棒に振ったことや、疲れなどはその一言で消え失せ、また理子さんには悪いのだがカレー屋さんが見つからなくてよかったと思うのであった。