少し先の未来が見える
空はどこまでも黒く遠い。空の隙間を埋めるように星がゆらめいている。そんな星の光だけが夜道を照らしている。 トラックが走ってくる。地上を這いずるトラックの光が空の星々をかきけしていく。 時間は午前の二時をまわっただろうか。もともと人通りが少なく街灯の一本もたっていない。その道をトラックはスピードを落とすことなく走っている。 片岡は急いでいた。自転車のペダルを力いっぱい踏み込み、体で風を切っていく。 赤いスーツを着たメガネの女は終電を逃して、自宅アパートまで歩いて帰っている途中だった。 力強さを感じるキリッとした眉も今はへたっている。 男にフラれたとかでずっと飲んでいたせいで足取りが覚束ない。 彼女が交差点を渡ろうとしたとき、光が彼女の体全体を包み込んだ。 鈍い音がして彼女の体がトラックのフロントガラスに押し出されるよう宙をまう。 トラックの運転手が一瞬ブレーキを踏む。しかし、それは間に合うはずもなく、地面に叩きつけられた女の体を右の前輪で踏みつけた。 運転手は間に合わないことを悟って、すぐにアクセルを踏み直して、走り去った。 走り去るトラックを横目に片岡は自転車から飛び降りて、轢かれた女のもとにかけよる。女の姿を確認すると、息をはいて頭をたれた。 ポケットから携帯を取り出して、一一〇番した。 パトカーと救急車が来るまであいだ、片岡は轢死した女を見つめて、唇をかんだ。 「車のナンバーとか覚えてる?」 少し肉厚な頬と瞼の垂れ下がった男の警察官が片岡に訊ねた。 片岡は目だけ上をむいて思い出す素振りをしながら、すらすらとナンバーと車体に書かれていた運輸会社の名前を答えた。 警察官はつむっているような目を見開いて、驚いた顔をした。 それから簡単な調書をとって、夜も遅いこともあってか警察官に送られて家に帰った。 翌日、片岡はまた警察署を訪れていた。 ほんの一時間前に交通事故があって、また片岡はその現場にいた。 はねられたのは小学生くらいの男の子だ。 はねた車の運転手は真っ青な顔をしながら警察に電話していた。 そのすぐ足元で片岡が少年の脈をとっていた。脈はなく、外傷はないようだが息もしていない。 片岡は少年に語りかけるが返事をしない。 人工呼吸をこころみるが変化はなく、心臓マッサージでもかわりはない。 もう一度人工呼吸をこころみる。片岡の顎まで降りてきた汗が少年の頬に落ちた。 救急車がとまり、あとを引き継ぐ。手早く少年を救急車に乗せると、サイレンを響かせていった。 少年は処置のかいなく搬送中に息を引き取ったという話を聞いて、片岡は抑揚のない声で「そうですか」と言った。 警察官はペンを走らせながら、「昨日の今日で ね」と呟いた。 「死神ですから」片岡の言葉に警察官は顔をあげる。片岡は無表情で、どんな気持ちでそう言ったのか推し量ることはできなかった。 空は青々と澄んでいて、大きな白い雲がゆっくりと時間をかけて、その姿を変えながら、端から端へ流れていく。 どこかで季節に乗り遅れた蝉が鳴いている。そのうるさくてはかない鳴き声と講釈している教師の淀んだ声を子守唄にして片岡は寝息をたてている。 裸足の少女が落ちていく。片岡と同じ学校の制服を着ている。涙の粒を置き去りにして落ちていく。 地面に墜ちる。血が土に吸い込まれながらひろがっていく。右腕があらぬ方向をむいており、残りの手足は小刻みに揺れている。 脱ぎ捨てられた靴が縁に綺麗に並べられているのが片岡の視界のすみに入る。 全体を俯瞰していても夢なのでどうすることもできない。 校舎から大人がでてきて、何か叫んでいる。しかし、片岡にはその音は聞こえない。 体がぎゅうっと引っ張られる。悪夢から目覚める。 片岡は椅子を蹴って立ち上がる。教師が何か呼び掛けるが、それを無視して、教室を飛び出した。 階段をかけあがる。あれは屋上だった。少し錆びて重くなった鉄のドアをこじ開ける。 ドアから太陽の光が射し込んで、視界いっぱいにひろがる。片岡は目を細める。 ちょうど屋上の安全フェンスを乗り越えた少女がいた。夢の通りだ。 片岡は少し少女に近づこうとして、彼女が叫ぶ。こないで。 「もう死ぬの。死ぬのよ」 興奮した口ぶりで少女は繰り返す。 「嫌なことがあったくらいで」 片岡は言ってからしまったと思った。が、遅かった。少女はますます興奮した声をだす。 「あんたに何がわかるのよ! 黙って。黙ってよ!」 片岡は息を吸い込んで、吐き出した。蝉は鳴いていない。 「……未来が見えるんだ。予知夢ってやつだと思う」 片岡には未来が見えた。ただそれは都合よくいついつのどこのだれの未来というわけではない。 急に眠気に襲われたら必ずやってくる悪夢。未来の映像。 自分のどこか近くで起こる事故の映像。それが事細かに夢になってあらわれた。 その未来は本当に近くて、どんなに急いで現場に向かっても絶対に間に合わない近さだった。 事故を防ぐことも出来ず、救急車がくるまでに息を引き取る人たちをみとることしかできなかった。 そんなことが数回続いて、片岡は救急処置と事故処理の方法手段を勉強した。 これで全員とはいかなくても、うちの何人かくらいは助けられるはずだった。 それから見る夢は即死か、処置が無駄に終わるものしかみなくなった。 それでもどうにかできないかと足掻いた。 最近では遠くの自然災害の夢をみるようになった。夢の中でだれかの悲鳴が、子供の泣き声が、家屋に挟まれ助けを呼ぶ声が渦巻く。 そんな悪夢から目覚める。三分ほどでテレビの上のほうに災害のテロップが流れる。 本当にどうすることもできない夢。予知。 ただ今は違う。始めてみた飛び降りの夢。飛び降りる前に間に合った。できることがある。だから。 「死ぬな。生きてほしい」 少女は片岡の話を信じた。いや、否定しなかった。 少女はくすりと笑って、口元に手をやる。 「自分のためじゃない。寝覚めが悪いから」 片岡はその言葉にうなずいた。 「そう、そうだよ。自分のために死んでほしくない。生きていて欲しいの。あなたのことは名前も知らないし、偉そうなことも言えない。でも、死んでほしくないって気持ちは本当。本物。だから」 「あーあ」 少女は空をあおぐ。 「ほんとはさ、友達、っても私だけがそう思ってたみたいなんだけど。その子にさ、その子だけにさ知らせてるんだよね。あなたの気持ちは嬉しいけどさ、来てくれたのがその子だったらよかったのに」 そう言って笑った少女の姿が片岡の視界から消える。 片岡は金網に駆け寄って下を見た。右腕が折れている。痙攣したように三肢が震えている。 夢の通りで、なにもできなくて、たすけられなくて。 片岡は膝をついた。 縁に彼女の靴はなくて、履いたままで。また、少女は最後に笑っていた。 片岡の目から涙の粒がこぼれる。