無題
満月の夜だった。鈍重な厚い灰色の雲が月を隠している。 「やあ、ヴァンパイア。こんにちは、吸血鬼。さようなら、糞野郎」 黒いフードの男は狂ったようにケタケタと笑いながら、鋭く尖った眼で吸血鬼を見据える。右手には木の杭を持っている。左手には拳銃を持っている。 「やあ、ヴァンパイアハンター。こんにちは、吸血鬼狩り。さようなら、糞野郎」 吸血鬼は口の端をニイっと持ち上げて笑う。 「木の杭がなんなのだ。銀の弾丸? 笑わせるな。にんにくなんぞちと臭う食料であるし、十字架はクリスチャンにぶつけてしまえ」 この吸血鬼の言葉は真実なのであろう。しかし、今はその言葉に陰りが見えた。 「強がりをぬかすよ、ヴァンパイア。さしものお前も海を渡るのはつらかったろう。ええ」 吸血鬼は流れる水に弱い。低俗な彼らなら川を渡れないし、海も渡れない。その体は塵となり闇にかえるだろう。高尚なこの吸血鬼ですら体力の消耗は激しいものだ。 強がりと言えないこともない。本来の力の半分も今はないだろう。棺にでも入っていればダメージも違ってはいたのだろうが、それを運ぶ下僕も家来も同胞も目の前の吸血鬼狩りに奪い、消され、殺されていた。 「ぬかせよ、吸血鬼狩りが。半分でも十分すぎるわ。我なるは夜の王。怪物の極。怪異の頂。貴様ていどが語るのもおこがましい」 王は王の姿勢を決して崩さない。傷つこうが、疲弊しょうが、それが王というものだ。同時に人間など半分のさらに半分の力しかなかろうとも障壁にもならないという自身も存在する。 雲間から月が顔をだす。 吸血鬼が軽く跳ねた。そう見えた。羽毛が風にさらわれるような軽やかさだった。が、強靭な足が蹴った地面は陥没していた。 その一蹴りで吸血鬼は吸血鬼狩りの足元に滑り込む。低い体勢から右の掌底を打ち上げる。顎に。一直線に。 顔の下半分の肉を引きちぎり、骨を砕く。裂けた血管から血が吹き出す。吸血鬼狩りは背を反って、後ろに倒れる。その彼の右腕が吸血鬼の振り上げた右腕の肘関節を砕く。肘からしたが回転しながら飛んでいく。 死ぬはずの一撃。死ななければならない一撃。それでも吸血鬼狩りは笑う。鼻から下を失ったのだから口の歪みは見えないが、目を嬉々と細めて確かに笑った。 吸血鬼のちぎれた右肘から下は闇に溶けるように蒸発して消え去り、失った腕が再生した。 吸血鬼はゆっくりと両手を叩き拍手する。乾いた音が夜の空に吸い込まれていく。 「そうか。そうか。お前もそうか」 心底嬉しそうな冷たい笑顔で吸血鬼狩りを見る。 「ハロー、ヴァンパイア」 味方殺し。同族殺し。同胞殺し。それが正体。ヴァンパイア。吸血鬼の吸血鬼狩り。 吸血鬼狩りは再生した顎で言う。 「馴れ馴れしいぞ、吸血鬼」 「仲間殺しか、吸血鬼狩り」 「馴れ馴れしいぞ 吸血鬼」 「輩殺しか、吸血鬼狩り」 「馴れ馴れしいぞ! 吸血鬼」 楽しそうに愉快そうに吸血鬼は吸血鬼狩りの名前を呼ぶ。その声が我慢ならないもののように吸血鬼狩りは怒声をあげる。 右足の蹴りが吸血鬼の頭を狙う。吸血鬼は左腕をガードにあげる。接触。同時に左腕は消し飛ぶ。が、吸血鬼狩りの脇腹も抉れる。吸血鬼の手刀が突き刺さっている。 身体能力。再生能力。反射神経。視覚。変化。吸血。眷属を使役する。そんなものは吸血鬼の本質ではない。 力。純粋な力。パワーこそが吸血鬼が化物の頂点に存在する理由。 霧になろうが、蝙蝠を使おうが、火を吐こうがそんなものはまったく、全然、意味を持たない。 吸血鬼同士の戦いは単純、シンプル、簡素。殴り合いだ。殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、最後には食い、食われる。驚異的な不死性。再生能力が追いつかなくなるまで。 決着は思いのほかはやくやってきた。 「遅い。遅すぎるぞ。吸血鬼狩り」 吸血鬼が手を組んでハンマーのように振り下ろした一撃。吸血鬼狩りの頭蓋がひしゃげ、脳漿が飛び散り、眼球が押しつぶされる。血飛沫の中、頚椎の白さだけが目に鮮やかに映っている。 吸血鬼狩りの再生能力は吸血鬼に比べて遥かに劣っていた。正確には吸血鬼が優れすぎているのだ。 視界を失い行動に対処できない吸血鬼狩りの首の根元に吸血鬼の鋭利な白い歯が突き刺さる。血を吸い上げ、吸い尽くし、その体を貪り食う。 「私の中で眠るといい。狂い狂った輩殺しの吸血鬼」 吸血鬼はそっと静かにささやいた。その瞳から涙がこぼれる。