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入学式の前

4
「大丈夫?」
 チワが心配して声をかけてくれる。
 深々と頭を下げてお礼を言うとチワは少し気分を害したようにふくれっ面になった。
 彼女のよく使う「友達なんだから」という言葉からすれば俺のお礼の言いようが重々しいのが気にくわないのだろう。
 けれど感謝の気持ちを伝えるべき時はどんな仲であろうとしっかりとするべきだと思うからチワが嫌がってもそれは曲げなかった。

 式がはじまってすぐ。というより式が始まる直前ほどだろうか。どんどんと人が集まって、講堂が生徒でいっぱいになったあたりでとたんにめまいに襲われてとても立っていられなくなった。
 人に酔う。とか、人ごみに酔う。とかいう概念はおぼろげながら理解していたつもりだけれど、いかんせんおばあちゃんとふたりだけの世界で過ごしてきた俺がこれほど大勢の人間に囲まれる(実際には囲まれているわけではないが)状況などかつてあったはずがなかった。
 だから実際にそれを体験するのははじめてのことだった。だから、なんでいきなりとか思っていたわけだ。
 急にしゃがみこんでしまった俺にいち早く気づいたのはチワだった。
「どうしたの?」
「……気持ち悪い」
 と、答えた俺の声はずいぶんと情けないものだった。自分でわかるくらいに。
 チワはすかさずスカートのポケットからちいさな小物いれを取り出し、さらにその中から二錠の薬を差し出した。
「酔い止めの薬よ。人酔いに効くかはわからないけど気休めにはね?」
 と、チワは言った。
 この時、俺はチワに言われて自分の体調不良の原因に合点がいった。
 初めてのことだから当然なのだが、過去の事象と照らしあわせてこの気持ち悪さの原因を導き出すなんてことはできないわけで、雲散霧消? いや、五里霧中、かな? ともかくそんな感じだったわけだ。
 当の本人すらわかっていないっていうのにチワはその原因をピシャリと言い当ててしまった。
「きみってテレパス?」
「もうっ。冗談言ってないで飲みなさい!」
 と、お姉さんが弟のことを叱るような(そんな関係を持っていないので想像だが)口調で、やや強引に薬を手に握らされていた。
「水なしでも飲めるのだから」
 と、錠剤を見つめたまま飲もうとしない俺にチワが言うが、今度は外れだった。
 そういうことで固まっていたわけではなく、口を開くのも辛かったので波がひくのをまっていたのだ。
 少し待って、今だ! と、錠剤を口の中に放り込み一気に飲み干す。抱えた膝の中に顔をうずめて十分か、もう少しだろうか。
 だいぶよくなって立ちあがったところで冒頭の「大丈夫?」に戻るわけである。
 実際、薬のおかげなのかどうかはよくわからない。単純に慣れの問題だったのかもしれない。
 だが、十分やそこらで回復できた理由はわかっている。はっきりと。
 チワのおかげだ、と。
 それは薬をくれたからということではなくて、なんといえば適当なのか、うまく言えないけれどチワがすぐそばにいてくれたこと。それが大きかった、と思う。
 それがヘータでも多分おなじだっただろう。
 数百人もいる中でひとりぼっち(なんて言えば寂しがり屋みたいに聞こえるから厭なんだけど)じゃないと、そう考えたとたんに気持ちが楽になった。
「ありがとう」
「薬くらいで大げさよ」
「そういうことじゃなくて……さ。とにかく、ありがとう」
 うまく言葉にできなくて伝わったかはわからないけれど、十分の一でも伝わればと思いもう一度だけお礼を言った。



sage
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