第四話 前編
ようやく三人の目にトットの町を囲う石壁の上端が見えてきた。高くそびえ立つ石壁の砦は崩れてなお峻厳な表情を見せている。しかし、その内側からは白煙が上がっていて、それの持つ雰囲気などはなんの意味もなしておらず、むしろ虚しさすら感じさせた。 バッツは手綱を引くと馬車を町から少し離れた場所にとめた。彼は一度、荷車にいるロザリーたちを気にかける素振りをみせてから、町へと視線を移した。 トットの石壁には四方に門があり、南北の大門と東西の小門にわかれている。バッツの視線の先にある東門は閉ざされていて町の中の様子をうかがい知ることはできないが、まだ町に人が残っているという気配は感じられなかった。 そのバッツの感じ方が絶対かといえば彼はエスパー的な能力を持った人間ではないから断言はできないのだが、それでも戦いの中で研ぎ澄まされてきた感覚がそう告げていた。 また、それとは別になんとも形容しがたい奇妙な感覚をバッツはかすかに感じていた。しかし、それはぼんやりと拡散した意識ではなく、はっきりと形のあるものである。それでいて掴みどころがなく、どのような性質のものなのかはわからなかった。 バッツは不可解なざわつきを感じていた。 その正体を確かめようと思考するものの、それは子供たちの声に遮られた。 「急ぎましょうよ」 そう言ったのはロザリーなのかパニッシュなのか、それともふたり同時だったのかはわからないが、とにかく子供たちは走りだしていた。 ロザリーもパニッシュもバッツと血の繋がった親子ではない。だが、もちろん、それ以上の絆が両者の間で固く結ばれている。子供たちはバッツのことを本当の父親のよう思っているし、カトレアのことを本当の母親のように思っていた。バッツとカトレアも同様にロザリーとパニッシュを本当の子どもとして接してきた。 バッツと子供たちの出会いもちょうどこんな魔物に襲われ火の手のあがる町でのことだったから、子供たちがまだ町には生きている子どもがいるのでは、と考え、そうであるならば助けたいと思うのは至極とうぜんの想いであった。 そういう二人の優しさをみれば自然とバッツの頬は緩むのであった。その姿は父親そのものである。 後ろ頭をかき、そんな自分を笑うと、二人のあとを追ってバッツも駈け出した。 ロザリーたちは門の前に着いていて、それをどう開けるか頭をひねっている。 鉄で補強された木製の門だ。馬車が二台は同時に通れない程度の大きさである。 すぐ横の柱には小窓があり、本来ならばその中に衛兵がいて、人の往来に応じて門の開閉を行うのだろうが、今そこに人の姿はなかった。 壊そうと思えばできない門ではないが、その前に試しに手を伸ばしてみた。パニッシュが「おっ」という顔をみせる。どうやら閉まっているのは形だけでかんぬきはかかっていないようだった。 そうとわかれば警戒もせずに扉を開くのが子どものやることだ。 徐々に門が開いていくその瞬間。 「あけるな!」 バッツは無意識のうちに叫んでいた。体中をはしったまるで雷にでもうたれたかのような激震が彼にそうさせていた。 さきほど感じた形容しがたい感覚がなんなのか理解できたのだ。そして自分の愚鈍さを罵るのである。 壁一枚はさめばとりこぼしてしまいそうなほど細く、鋭く凝縮された敵意。トットの壁の内側を絶対的な領域とし、そこへ踏み込むもの全てに向けられた明確な殺意。 それが先ほどバッツが感じたものの正体である。 その意識はたしかに捉えづらいものであったかもしれない。けれど気づかなければならないものである。すでにここは戦場なのだから。子供たちを連れてきたせいで感覚が緩んでいた。そんな言い訳が通じる場所ではないのだ。 そして今、町の中心から外へと発せられた敵意はロザリーとパニッシュに指向されていた。 バッツは走りだしていた。意識の正体が敵意だと感じ取ったその瞬間にはすでに。 彼の目はこどもたちを映すと同時に、禍々しい気を帯びたゆみなりの刃のような風が彼らに迫るのを見ていた。 見たとは言っても視覚の出来事ではなく、第六感ともいえる器官外の感覚で捉えた出来事である。 実際には色も形もなく、空気を裂くような鋭い音がするだけ。それが現実のことだ。 だから、まだ幼く拙いロザリー達にそれを認知することはできなかった。蓄えた経験も磨かれたセンスもないのだ。 バッツの尋常ではない反応になにかが起きているんだとは思えても、行動に移せる機転はなく、ただその場にとどまるだけなのだ。 そのような子供たちを連れてきてしまった自分自身の愚かさをバッツは呪った。 バッツとロザリー達との距離は一メートルとなかった。 それでも、 間に合わない バッツはひどく冷静にその事実を受け止めていた。 ふたりを助けている暇ない。一瞬、彼の中に迷いが生じる。その間も烈風は子供たちへ迫っている。 しかし、どちらかを見捨てるという決断を下せる男ではなかった。 ならば、選択肢は二つとない。 次の瞬間バッツはロザリーを突き飛ばした。 突然のことにロザリーは両目を見開き駭然とした表情をみせた。自身の体が宙に浮いていることにまだ気がついてもいなかった。 けれども彼女に不安も焦りもなかった。突き飛ばされる寸前にバッツが見せた優しい笑顔のためだ。 突き飛ばされたことで烈風の射線上から外れることができた、ということをロザリーが理解することはないが、バッツの行動が自分を助けるためのものだとわかっていたし、彼のことを信頼していた。 その行動のまもなくバッツはパニッシュを背に隠すように彼の前に立った。烈風は眼前迫り、パニッシュを抱えて飛び退く時間はもちろんのこと突き飛ばすだけの時間すらも残っていなかった。 鮮血が吹き出し、右腕が地面に横たわる。 その光景の意味を理解するのにパニッシュは時間を要した。 彼にとってそれはあまりに突然のこと過ぎた。いきなりバッツがロザリーを突き飛ばしたかと思ったその瞬間には起きていたこと、そうパニッシュには感じられた。 現実でもコンマ以下の間のできごとであったのだから、自身のすぐ横を通り過ぎた見えない刃の存在を知らないパニッシュがそう感じるのも無理ないことだ。 横手からそれを――バッツの腕が削ぎ落とされるその瞬間を空中で視線をそらすことさえできずに見てしまったロザリーは顔面を蒼白にして胃の底から逆流してくるものを吐き出していた。そんな状態の中、父親を心配するよりも先に「人」のなまなましさを見せつけられ込み上げてくる気持ちの悪さに我慢ができない自身を嫌悪していた。ロザリーは服の袖で口をぬぐった。 バッツの肩口からは血がえんえんと流れでて、地面に溜りを作っていた。彼はなくなった右腕に力を込めるような気持ちで力むと、その筋肉の収縮で無理やり血をとめた。それから息を深く吐いた。 パニッシュがようやく声をだしたが、それは言葉にならず嗚咽になった。 バッツは振り返ると、パニッシュの頭に優しく手を乗せて言った。 「なんて顔してる? 泣くこたあないだろ」 パニッシュの目からこぼれる涙をぬぐってやると、彼ははじめて自分が泣いているのに気がついたような顔をした。 「俺もお前もロザリーも、みんな生きてる。最高じゃないか」 それはバッツの率直な想いであった。一瞬の攻防の間に三人ともが生き残れる可能性などどれほどあっただろうか。片腕と引き換えに大切なモノが守れたならそれは安いものだ。 「ま、強いて難を言うならお気に入りのコートの袖がちぎれてしまったってことだな」 おちゃらけた声音を使って言ったが、そんな風に本気で思えていた。 が、パニッシュはそうはいかない。 バッツの言う事を無視して、勝手についてきて、そのせいでバッツが、父親が片腕を失ったのだ。 自分がついてこなければこんなことにはならなかった、と、そう考えるのが当然であり、哀しいかなそれは事実なのだ。 だからといってそんな仮定は今現在なんの意味も持たない。また、プレコグでもなんでもない彼らが今現在を過去の時点で予測することなどできるわけがなく、責任の所在を求めるというのが間違いなのだ。 しかしそれは外から見た理屈であり、パニッシュ、そしてロザリーが責任を感じるのはどうしようもないことなのだろう。それが人間の感情というものだ。 高笑いが響いた。まるでそれは夜空の星の彩りの一部であるかのような気品を感じさせるのだ。 月光に照らされ暗闇の奥からその声の主が現れた。自然と三人の視線はそこに集まる。 その姿は凄艶であり、美しい女性そのものにみえたが、尖った耳と金色の瞳が人ならざるものであるとわからせた。 しかし、そんな容姿とは関係なく、彼女から発せられる言い知れぬ恐怖が魔物でも、悪魔ですらなく、魔人であることを告げていた。 ロザリー達はその女を目にした時から体は震え、歯をがちがちと鳴らし、死を覚悟したように動けないでいた。その瞳には恐怖の色以外何も映してはいない。 バッツもまた女の姿を目にし、背筋が凍るような戦慄を覚えていた。それはかつて古龍を相手取った時以上のものであった。 しかし、そんな彼の口をついてでた言葉は、 「綺麗だ」 である。 その一言はマヌケそのものであり、彼自身どうしてそんなことを言ったのかわからなかった。 けれども、それほどまでに女は美しかった。月光に照らされ輝く長い髪、吸い寄せられるような瞳、しなやかに伸びる肢体、そのどれもが男を魅了するものであった。 だからといってマヌケのまま女に見惚れている場合ではないから、バッツは背の大剣に手をかけ、それを抜いた。もっともはじめから抜身であるのだが。 そのバッツの行動をみて女は笑みをみせた。口角を持ち上げて嬉しそうに、楽しそうに。 ロザリー達の反応を見ればわかるとおり並の人間であれば魔物の女と対峙しただけで恐怖に震えることしかできなくなる。そんなかよわい人間は彼女を退屈させていた。 そんな中でバッツは抜剣という戦闘行為をしてみせたのだ。女は自分を前にしてそういう胆力を示せる人間がいることが嬉しいのである。 しかし、バッツが次にとった行動は彼女からしてみれば予想外のことだった。 「パニッシュ」 バッツがパニッシュを呼んだが、彼は恐怖に心を支配され応えることができなかった。 バッツはもう一度パニッシュの名前を呼んだ。叫んだと言ってもいい。その一声は恐怖を払う力強さがあった。 パニッシュはゆっくりと顔をあげバッツの目を見た。バッツは軽く頷く。 「剣を抜け」 そうバッツに言われれば、パニッシュは狼狽する。バッツの背に隠され庇護されている今でさえ、魔物の女に怯え、すくみ、臆している。顔をあげ、返事をするのでもやっとのことなのだ。 それなのに剣を抜き戦うというのはとうてい不可能だった。 だから、無意識のうちに体がひけて、バッツの言葉に応えることもなかった。 しかし、バッツは自身の剣をパニッシュに差し出し、無理やり彼に握らせた。 パニッシュは精いっぱい振り絞った声で言う。 「無理だよ! 戦えないよ!」 するとバッツはきょとんとし、何を言っているのかわからない、という顔をした。 バッツがそんななのでパニッシュは戸惑ってしまう。 彼はバッツの言葉を一緒に戦え、という風に理解していたが、バッツにはそんな気はなかった。とはいっても、剣を抜け、と言われればそう解釈するのが当たり前である。 バッツの言葉足らずは焦りからくるものなのかもしれない。 「そうじゃない。そうじゃないんだ」 バッツは首を横に振った。 「かっこわるいから言いたくないが、やつと俺、五分五分といったところだろう」 パニッシュは驚く。バッツがそんなことを言うのを聞くのは初めてのことだった。 いつも自信あり気に振る舞い、余裕をみせていた彼が弱音にも近いことを言ったのだ。 しかも、だ。パニッシュにはわからないことであるが、バッツの言葉には嘘がある。 バッツは女と比べて自分がはるか格下であるということを、一度の攻防の中で理解していた。 互角であるはずがなく、勝てる確率はせいぜい二割か、いや、一割程度であろう。 そうであるなら子供たちを守りながら戦えるわけはなかった。 「だから、お前たちは逃げろ。そいつはくれてやる。そんなでもいちおう聖剣らしいからな」 彼はパニッシュに握らせた大剣を指さして言う。パニッシュはバッツの持つ剣が聖剣カオスと呼ばれていることは知っていたが、それにどういう曰くがあるのかは知らなかった。 長身のバッツをして身の丈ほどある大剣である。まだ子どものパニッシュから見ればその大きさは自身の倍ほどにも感じられた。とうぜん振るうことなどできはしない。 しかし、仮にも聖剣。聖なる剣である。魔を打ち払う力はある。 だから、お守りにはなる。 「でも! これがなかったらどうするのさ」 と、パニッシュが言えば、バッツは答える。 「だから、お前の剣をくれ」 剣を抜け。そういうつもりで言ったのだった。 パニッシュが腰からかける剣は細い刀身のなんのへんてつもない剣だ。聖剣でもなければ魔剣でもない。名のある刀匠がうったものでもない。 強度、切れ味、威力、どれを、なにをとっても大剣に劣るのだ。 なんのへんてつもない、と言った。それは確かにそうだ。世界中の人間がそう下すだろう。 しかし、バッツにとってのそれはパニッシュの剣である。 「お前が使った、お前の想いがこもった剣だ。こいつはきっと俺に力をあたえてくれる」 パニッシュから彼の剣を受け取ったバッツはそう言った。 パニッシュには言い訳に聞こえた。 バッツが大剣をパニッシュにわたすのは子供たちの身の安全のためである。 しかし、それだけでは子供たちがバッツを心配する。武器がなければ戦いようはない。 だから、とってつけたような理由でパニッシュの剣をもらったのだ。 推測でしかない。しかし、バッツの言葉が本気だと思える状況でもなかった。 パニッシュが何か言いたそうにしているのはバッツにもわかった。しかし、そのことには触れずに言う。 「いいか? ロザリーはお姉ちゃんだがお前は男だ。守ってやるんだぞ。いいな?」 やや間をおいてからパニッシュは頷いた。ためらいや気後れで遅れたのではない。言葉の意味をじゅうぶんに理解するために必要な間だった。 そうであることは彼の力強い目が語っていた。 「よし行け!」 バッツがパニッシュの背を叩くと、それを合図に彼はロザリーのもとへ走りだした。 そしてロザリーの手をとると、ふたりは走った。ただ走った。がむしゃらに、なにも考えず。これ以上、足手まといにはならないために遠くへ。そしてなによりも恐怖から逃げるために。