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弟が死んでそれから俺にできること

 白いひざしのてりつける暑い夏の日、弟が死んだ。
 その日は甲子園の予選大会決勝戦で、俺も後から試合を見に球場に行くつもりだった。両親もわざわざ仕事を休んだりして、こんなことになるなんて一分も考えちゃいなかった。
 ちょうど家を出ようとしたとき電話がなった。靴を履いたところだったから俺たちは顔を見合わせて苦笑した。
 母さんがあきれた顔をしてリビングに入っていった。
 その間、俺と親父は兄バカ、親バカ発言をして笑い合っていた。弟が決勝で活躍することを信じて疑いなんてしなかった。
 不意に大きな物音がして、なにごとかとリビングに駆け上がれば母さんが泣き崩れていて、コードの伸びきった受話器から声が漏れていた。
 そんな状態でもたいして深刻な事態を予想出来ていなかった俺は愚かだと思う。
 親父が受話器をとって、電話の相手に応答する。
 その最中、親父は俺に一度だけ視線を向けた。その顔は動揺しているようだった。
 けど、それ以外はずっと冷静で母さんが泣いている理由に見当もつかなかった。
 しばらくして親父は受話器を置くとゆっくりと俺に振り返って、弟の死を告げた。
 その瞬間、俺の頭は真っ白になって悲しいとかそんな感情はなく、意味のわからない笑いがこみあげてくるだけだった。
 嘘だろ、と口に出かけた。親父の頬を涙がつたうのを見てそれは引っ込んだ。
 それからどうやって病院についたのかは覚えていない。
 いつのまにか霊安室にいた。
 親父たちは医者らしい人に呼ばれて部屋をでていくと、そこには俺と弟の二人だけになった。

 俺と弟の境遇はそれこそあの野球漫画みたいなものだった。
 双子でこそないが一つ下の弟は野球部のエースで勉強でも常に上位一〇人にいたし、俺達にはかわいい幼馴染もいた。
 そういう優秀な弟が俺の自慢だったし、だからかわいくおもっていた。
 だけど同時に疎ましくもあった。
 野球を始めたのは俺のほうが一年も早かった。
 だけど、そんなアドバンテージもすぐ消えた。弟はみるみるうちにうまくなって俺より先にレギュラーになった。
 それが悔しくて俺は努力した。弟が野球をやってない時間も俺は野球をしていた。
 中学二年になって、弟が野球部に入ってきた。
 夏の大会、弟はエースだった。俺は背番号すらもらえなかった。
 弟が努力していないとは言わない。いつも一緒にいるのだ。だから弟の努力は知っている。
 だけど俺はそれ以上の努力をしてきたつもりだった。
 どうやら才能の差は努力では埋まらないことを知った俺は中三の大会が終わって引退とともに野球をやめた。
 高校に上がって俺が野球部に入らなかったことを弟はなにかと言ってきた。野球の強い高校に入ったのだからとうぜん野球部に入るものだと思っていたのだろう。
 野球をやめるなんて誰に話したことでもなく、俺の中で決めただけのことだから弟がそう思うのもとうぜんだろう。
 そんな弟をうっとうしく感じ、顔を見るのも嫌で、なによりそんなことを思う自分が嫌だった。
 弟にはなんら非がないのだ。俺の一方的な嫉妬だ。そうだから感情のやり場がなくて心が腐っていくような気持ちだった。
 そんな俺の唯一の救いは幼馴染の文香だった。なにひとつ弟にかなわない情けない俺を文香は好きだと言ってくれた。
 俺は文香のことが好きだったから嬉しかった。だけどすぐには信じられなくて弟じゃなくていいのか、なんて聞いていた。
 文香はきょとんとした顔をして「私にとっても弟みたいなものだから」と答えた。
 このときばかりは兄でよかったと思った。
 中学一年の冬のことだった。
 なのに、その時の俺はどうかしていて文香は優しくしてくれていたのに、哀れまれているようでそれすら邪険に扱った。
 それでも文香は俺を心配してくれていつもそばについてきた。
 ある日、文香の慰めるような言葉に俺は思わず手を出していた。自分で自分を疑った。文香の頬をぶつなんて思いもよらなかった。
 だけど遅かった。弁解の余地もない。
 瞳に涙をためて、文香はかすれた声でごめんね、とだけ言って、走っていった。
 謝るのは俺の方なのに、追いかけもせず、追いかけることなんてできるはずもなく文香の背中を見送った。
 自己嫌悪に浸りながらぼうっと空を眺めていると弟がやってきた。
 怒っている弟の顔なんて久しぶりに見た。
 弟が怒っているわけはとうぜん文香のことだった。あいつも文香が好きだった。そんなことは言わなくてもわかっていた。
 だから文香に手を上げた俺が許せなかったんだろう。
 弟はなにも言わずに俺を殴った。拳で、おもいっきり。
 避けもせずそれを受けた。とうぜんの報いだ。
 だけど、その後の弟の言葉に俺の中のなにかが切れた。その言語を俺は今でも思い出せない。もしかしたら何も言わなかったのかもしれない。いや、そうだろう。弟はなにも言わなかったのだ。
 弟になにも勝てない惨めな自分の一方的な怒りをぶつける正当性を欲した俺の都合のいい幻聴だったんだろう。
 俺たちははじめて殴り合いの喧嘩をした。
 けっきょく喧嘩ですら俺は弟に勝つことはできなかった。
 それからしばらくの間、俺は弟と口もきかなかった。文香とも。

 夏が来て、弟の中学最後の大会がはじまった。
 図抜けた実力をもつエースで四番の弟がチームを引っ張って県大会の準決勝まで駒を進めた。
 当時の俺たちはまだ喧嘩の最中で口もきいていなかったけど、俺はその試合を見に行った。
 仲直りしようと思ったわけじゃない。
 対戦相手が優勝確実と言われていた強豪校だったからだ。
 弟が負けるところが見たかったのだ。誰かに負かされているところが見たかったのだ。
 最低だと思った。
 試合は下馬評通りの結果に終わった。
 絶対的なエースだった弟がバッティングピッチャーのように打ち込まれ、打席でもボールにかすりすらしない。
 そんな弟の姿を見て、俺はすかっとすると思っていた。
 だけど胸が締め付けられるように痛かった。
 ああ、そこまで自分は堕ちちゃあいないんだな。
 そう思った。
 安心した。
 くだらない嫉妬から弟と口をきかない自分がばからしくなった。
 球場の入り口に立って弟を待つことにした。
 弟が俺を見つけるとびっくりした顔を一瞬見せ、それから俺にかけよってきた。
 弟は俺に抱きつくと人目もはばからず泣きじゃくった。
 試合に負けたのがよほど悔しいのかと思えば、ごめんね、ごめんね、と何度も言っていた。
「ああ、馬鹿だ。俺。本当に馬鹿だ」
 口の中でつぶやいた。
 弟の頭をなでてやりながら俺も謝った。
 他の部員たちは抱き合って泣きじゃくる俺たち兄弟を見てどう思っていたんだろう。
 そのときの俺たちにそんなことを考える頭はなかった。

 その翌日、俺は文香を呼び出してひさしぶりに話をした。
 手を上げたことを謝ると「いまさら」と笑った。
 どこかぎこちなかったけれど楽しい時間だった。
 たわいもない話をたくさんした。
 日も暮れた公園でとなりに腰掛ける文香がいて、俺はさりげなく肩に腕をまわした。
 すると文香は声をあげてとびあがった。
「ご、ごめん。いきなりだったから……」
 その時の文香は俺の目線から顔を逸らしていたのに、浮かれていた俺はそんなことに気づきもしなかった。

*
 あかりもついていない霊安室にひとり。思い出すのは嫌な自分ばかりだった。
 弟に対してもうなにも感じていないつもりだったのに、恨み言ばかり思い出す。
 弟が死んでこれで卑屈にならずにすむ、とどこかで安心している自分がいるようだった。
 自分がひどく汚らしいものに思えた。
 まっくらな部屋にとつぜん光がさしこんだ。親父たちかなと思い顔を向けたが、入り口にたっていたのは知らない男だった。
 シルクハットをかぶり、燕尾のスーツ着た全身黒ずくめの男。腕にはステッキがかけてあり、マジックショーの舞台から抜けだしてきたような、そんな姿だった。
 俺はぶしつけにその男を見ていることに気づいてあわてて視線をはずした。
 しかし、男は薄ら笑いをうかべて俺に話しかけてきた。
「弟さんが死んだんだって? 交通事故だってねえ」
 にらみつけるように男をみる。いや、まさしくにらみつけた。
 心の底では劣等感を感じていたかもしれない。いや、そうだと断言できる。どこかで嫌っていた。
 だけど全部が嫌いだったわけじゃない。嫉妬を感じる俺の心を弟のせいにしていただけで、弟のことは嫌いじゃなかった。たったひとりの弟だ。嫌えるわけがない。
 だが、男は言葉をつづける。
「それがさあ、居眠り運転だってねえ。ついてないっていうか日頃の行いでも悪かったのかね、弟くんは」
 けらけらと笑うのだ。
 俺はこのきちがいに殴りかかった。のに、拳は宙を殴りつけ、男は俺の背後に立っていた。
 唖然として振り向く俺を男は笑う。
「怒るのかい? 大嫌いで邪魔な弟が死んだんだよ? 喜ぶべきだろう?」
「嫌いじゃない!」
 俺は男の言葉をかき消すように声を張り上げた。
 男は俺のまわりを歩きだす。
「本当に嫌いじゃなかったかい?」
「うるさい!」
「本当に許していたのかい?」
「だまれ!」
 男が俺の耳元でささやく。
「否定はしないんだね」
 腕を薙いだ。
 たしかに俺の腕は男の体をとらえたのに、それは影のように掻き消えた。
 あまりのことに声も出ない。
 姿はないのに声だけはする。部屋の暗闇全体から響いているようだった。
「嫌いなんだろう? 憎いんだろう? 認めろよ」
 そんなことはない。
 俺は俺が嫌いなだけだ。
 弟がなにかしたか? ただ俺より野球の才能があって、頭も良かっただけだ。
 それが悪いことか? 憎いことか?
 俺が勝手に羨んでるだけじゃないか!
「彼女は? 文香はどうだ? 気まずくなったのをいいことに、彼女に手を出して奪ったんだぞ! 悪いことじゃないか! じゅうぶんすぎる悪党だよ」
「違う!」
 俺は叫んだ。
 文香をぶって、謝りもせずに放っておいた俺が悪いんだ。
 なぐさめてくれたのに暴力をふるった俺に愛想を尽かすのはあたりまえだろう。
 自業自得だよ。
 男はせせら笑う。
「そう思いたいだけだろう? 弟は悪くない。自分が悪いんだ。そう言っていれば悲劇の主人公をやっていられるものな!」
「そんなんじゃない!」
「じゃあ」
 男はきゅうに真面目な顔をして言った。
「もしもお前の弟が死なずにすむとしたらお前はどうする?」
 とつぜんわけのわからないことを言い出した。
 弟はもう死んでるんだ。そんなことがあるわけがない。
「くだらない質問だよ。もしもの話さ。ほら、どうするんだよ」
 ふたたび男はおどけた調子で言う。
「……助けるに決まってんだろ!」
 そりゃ、弟が生き返るってんならなんでもするさ。俺は弟が嫌いじゃないんだから。
「かわりに誰かが死ぬとしてもか?」
「も、もちろんだろ」
 男はけたけた笑う。
「エゴだねえ。弟のためならかわりに誰かが死んでもいいんだ? ふーん。それが自分でもかい?」
 男はひどく冷たい目で俺を見つめた。
 俺は唾を飲み込んで、それからうなずいた。
 男はあきれた声をだす。
「そんなにいい人でありたいかよ。じゃあ、確かめてきなよ。そのとき自分がどうするかをさあ」
 男が俺の目の前に手をかざしたかと思えば、視界が真っ暗になって、俺の意識は底のない穴をずっとずっと落ちていった。

*
 目覚ましがなっている。俺は布団からはいずりでて時計の頭を叩いたが、いっこうに音はやまない。
 二段ベッドの下に向かって叫ぶ。
「うるせえぞ! かずき」
 鳴っているのは弟の目覚ましだった。
 しかし、返事はなく、目覚ましはまだ鳴り響いている。
「……そうか。かずきは死んだんだった」
 するとちょうどドアが開いて歯ブラシを咥えた弟があらわれた。
「ひでえよ、兄ちゃん。愛する弟を勝手に殺すなんてさあ」
 そうだ。俺はなんであんなことをつぶやいたのか。死ぬわけがないのに。なのに俺は本気でそう思っていた。
「お兄様の眠りを害するものなど死んでしまうがいい!」
 ごまかすように俺はふざけた口調で言った。
 なんだろう。なにか忘れているような気がする。
「おー、こわ。のろい殺すなら俺が甲子園で優勝してからにしてくれよな」
 俺はそんな弟の台詞に少し驚いた。普段は冗談でもこんなことをいう男ではない。あとひとつ勝てば甲子園だ。弟も緊張してるのだろう。それを悟らせないためにこんな強気なことを冗談めかして言う。
 俺は思わず苦笑した。
「なんだよー? それ」と、弟はふてくされる。
 俺は何も言わずに弟の髪をくしゃくしゃとかきまぜてやった。
「んだよ!」

 弟が玄関で靴をはいていた。やけに家を出るのが遅いと思えばちょくせつ球場にむかうらしい。
「じゃ、行ってくっから」
 そう言って弟がドアノブに手をかけた瞬間、俺は得も言われぬ焦燥感に襲われた。漠然とした言葉に出来ない不安。気づけば俺は弟を引き止めていた。弟は不思議そうな顔をしている。
「ちょ、ちょっと待て。俺も一緒に行くから」
 怪訝な顔をする。
「いまから行ったって開場まで時間あるけど?」
「いいんだよ」
 俺は無理やり弟をまたせ、急いで着替えをすまして家をでた。
 道中他愛もない話をした。
「野球やめなければ今頃、兄弟で甲子園だったのにな」と、弟。
「高校レベルじゃ俺にレギュラーは無理よ。三年の夏大に思いで代打が貰えればおんのじってとこだろ」
 すると、弟は笑って肯定した。
「そだよね。兄ちゃんだものな」
「どういう意味だよ」
 俺たちは笑いあえていた。
 そんな中、交差点に差し掛かった。信号は赤。
 横断歩道の前で立ち止まった瞬間――俺は、すべてを思い出した。
 モルグ。泣いている両親。交通事故。怪しい男。問答。やり直し。助ける。過去。弟が死ぬ。
 俺はいつのまにか息を荒げ、膝をついていた。
「ちょ、どうした? 汗すごいよ? 兄ちゃん?」
 心配する弟の声は耳に聞こえていても頭に入ってこなかった。
 あの男は居眠り運転のトラックが、と言っていた。
 あたりに視線を走らせる。まだそれらしい姿はない。交通量は少ないし、人の姿もない。
 ここじゃないのか。いや、そんなはずはない。ここで思い出しのだ。
「ちょっとだいじょぶなの!」
 弟は少し怒ったように声をあらげた。
「あ? ああ。ちょっとめまいがしただけだから」
「たくさあ」と、弟はふてくされたようにそっぽを向く。
 まだ信号は変わらない。
 先に気づいたのは弟のほうだった。
 横断歩道の反対側からスモックを着たちいさな子どもが走ってくる。子どもは後ろにいる母親に顔を向けていた。それがいけなかった。
 赤信号の横断歩道を飛び出していた。クラクションが鳴り響く。子どもに気をとられて車がきていたことに気づかなかった。
 俺は直感する。あの子どもが代わりなのだ。霊安室にあらわれた男は言っていた。弟が死ぬ代わりに他の誰かが死ぬ、と。それがあの子なのだ。
 だけど、いいのか。子どもだぞ。第一、違うじゃないか。トラックじゃないのか。居眠り運転なんだろ。どうすればいい。
 そんな思考に俺が囚われているあいだに弟が走りだしていた。子どもを助けるために。
「やめろ!」
 そんな言葉を紡ぎ出している暇はなかった。
 とっさに俺は弟の腕をつかみ後ろに引き倒した。弟は唖然とした表情で倒れていく。そんな弟になにか言う暇などなく、代わりに俺が走りだす。子どもを掬い上げる。クラクションはまだ鳴っている。子どもの鳴き声が耳に響く。
 視線を左右に走らせる。弟はまだ倒れたままだった。だめだ。
 母親! 歩道の向こうで母親は手で口をおさえ青ざめた表情をしている。俺はややためらって、母親にむかって子どもを放り投げた。
 甲高いブレーキ音が空にひびく。
*
 視線を走らせる。子どもは? 弟は?
 しかし、俺が立っていた場所は交差点ではなかった。
 霊安室にいた。
 目の前に弟の死体がある。
 笑い声が響く。
 おどけた声。
「やあ、やあ、やあ。残念だったね。実におしい」
 男が笑う。
 俺には子どもを放り投げたところまでしか記憶がなかった。
「どうなった!」
 男の胸ぐらをつかみ、壁に押し付ける。男は笑顔を崩さない。
「どうなった? 弟はさんはそちらにいますよ。それが全てじゃないですか」
 男は言った。
 ハンドルを切り急ブレーキ。アスファルトにタイヤ痕を残しながら車は軌道を逸れ、そして結果は最悪の。
 俺は男を突き飛ばす。
「どういうことだよ!? トラックは? 子ども!? ふざけんな!」
 聞いていたのとまるで違う状況。俺は男に怒りをぶつけていた。
「状況がぜんぶ同じじゃあ弟くんが死ぬ運命から逃れようがないだろう?」
「だったら!」
 男の言葉は正しいものであった。けれど、不条理に思えた。
「もっかい行かせろよ」
 あんな終りで納得が行くはずがない。
「ええ。もちろんいいですよ」
 男がニタッと笑う。
「あなたの命がもらえるのなら」
 唐突な言葉に俺の思考は停止する。
「そりゃあ代償は必要でしょう? 運命のやり直しには魂をいただきます」
 くるりと表情を変える。
「しんぱいしないでください。少しですから。寿命が少し縮まるくらいですよ」
 俺の意識はまた深い深い穴を落ちていった。
*
「ふざけんな!」
 霊安室。俺は男を怒鳴りつけていた。
 逆行を繰り返す。それでも結果は変わらない。時間を変え、道を変え、試行錯誤しても弟の死の結果は変わらない。
 男はすずしい顔を変えることはない。
「私に言われても困りますよ」
「もう一回だ! もう一回行かせろ!」
 男はため息をつく。
「私は優しいので最初に言っておきますが次で最後ですよ。最後のチャンスです」
 そうして男は俺の前に手をかざす。

*
 交差点。俺は何度目になるかもわからない挑戦を迎えていた。そして最後の。
 運命の交差点を前に俺の口数は自然と少なくなっていた。
 不意に弟が語り出す。
「俺さあ、兄ちゃんのことずっと大嫌いだったんだよね」
「え?」
「才能無いくせに頑張っちゃってさ。朝から晩まで練習してんの。そのくせ、レギュラーにもなれやしないで恥ずかしいったらないよね。スポコン漫画の主人公じゃないんだからさ、努力したって無駄だっての。
そんなだっせえのになぜか人望だけはあってさ。リトルんとき俺がレギュラーで兄ちゃんが外されたときあったろ?
そんときもチームメイトが監督に抗議しにいってんの。『俺がレギュラーなのに兄ちゃんがレギュラーじゃないのはおかしい』ってさ。超笑えるよな。実力の世界だっての。努力したってくずはくず。そんなもんでレギュラーになれるわけねえだろって。
中学の時もさあ、すぐの夏大で俺はユニフォームもらっちゃってさあ。
あれなんでだと思う? これが笑えるんだ、また。
兄ちゃんが熱出して学校休んだ日あるじゃん? 覚えてる?
その日たまたま部活の後、帰んの遅くなったら監督がきてさ。なんて言ったと思う?
『いつも遅くまで残って頑張ってるな』だってよ。
兄ちゃんと間違えてやんの。俺、いつもまっさきに帰ってるっての。
一年間さあ、いつも居残り練習してたのに兄ちゃんと俺の区別もつかないんだぜ、監督ってば。
だから言ってやったよ。
『兄ちゃんみたいにうまくなりたいですから』ってさあ! したら、感心した顔してんの。とっくにうまいっての。
んで、帰る時も『がんばれよ、かずき』だって。俺の台詞のおかげで完全に勘違い。馬鹿だねえ。そのおかげで一年の時からレギュラーでした。まじサンキュー。それだけは感謝してる」
弟はいきなり目つきを変え、俺をにらみつけた。
「そんななのによお、文香は兄ちゃんのことが好きだって言うんだぜ? スポーツも勉強も、それ以外だってぜんぶ! 俺の方が優れてるのにさあ。クズみたいなアニキが文香と付き合ってんだぜ? 笑えるだろ?」
 かわいた笑い声がひびく。
「ぜんぜんわらえねえよ!」
 弟の形相に俺はおもわず体をふるわせた。
「だからさあ、兄ちゃんが文香を殴ったときはチャンスだと思ったね。
兄ちゃんと派手に文香のことで喧嘩して二人がきまずくなるように仕向けてさあ。そんで弱ってるとこにつけこんで、俺、強引に文香とキスしました。中一の時から付き合ってんのにキスもまだだったんだって? バカじゃねえの。
文香ってまじめだからそうすりゃあ兄ちゃんともっときまずくなってわかれるかと思ったらまじでそうなってんの!」
弟は一度、言葉を切った。
「俺ってこういうやつなんだよ! 兄ちゃんのこと見下して、大嫌いだし、ずるいことして文香のこと奪って、こういうやつなんだよ!
 だからもういいよ。助けようとすんなよ! 生き返らせんなよ! 馬鹿だよ、兄ちゃん。馬鹿だよ!」
「それって!?」
とめるまもなかった。弟は自ら車道に飛び出していた。次の瞬間、ボンネットの上で跳ね、浮き上がった体が道路にたたきつけられると後続の車の前輪にその体を押し潰された。
そんな弟に駆け寄ることもできず、声をかけることもできず、俺の意識はどんどん薄れていった。
*
「なんで戻した!」
 霊安室に戻されるやいなや男に掴みかかった。
「ありゃあ即死だよ」
「そんなことじゃない!」
 男は薄ら笑いをうかべる。
「なんで怒る? 言っておくが弟の言葉はぜんぶ真実だぜ」
 そんなわけない、と言おうとして男が先に口を開いた。
「そんなわけない? わかってるんだろ? 本当のことだって。あれが弟の本気の思いだってさ」
 わかるさ。あれが弟が本当に思っていたってことは。だけど。
「だけど泣いてた。泣いてたじゃないか!」
 弟も俺と同じだったんだ。
 俺があいつの頭のよさや野球の才能に醜く嫉妬していたように、弟も仲間から慕われたり、文香に想いをよせられる俺が羨ましかったんだって。
 だからあの言葉が本当でも、あれだけじゃないってわかる。
 嫌いだけど好きで、好きだけど嫌いで。
 嫌いなとこだけぶちまけたのは俺にこれ以上、自分を助けにこさせないためだ。
「本当は弟を助けられなかったんじゃないんだろ? 助けた弟が俺を助けてたんだ」
 俺が弟を助ければ、つまり弟のかわりに死ねば、この霊安室に転がっているのは俺の死体だ。
 霊安室にひとりでいる弟のところに男があらわれ同じように話を持ちかける。
 馬鹿だからいいようにそそのかされて、俺のかわり弟が死ぬ。
 そのおかげで俺は生きられるようになって、気づけば弟の死体のある霊安室にいるってわけだ。
 弟を助けられなかった記憶だけがあって、また助けようと挑む。
 本当は助けられているのに、俺と弟で同じことを繰り返し続ける。
 このからくりに弟は俺よりも早く気づいたからわざとあんなことを言ったんだ。
「いやあ、美しいかな、兄弟愛」
 わざとらしく拍手をする男。
 俺はその胸ぐらつかんで壁に押し付ける。
「ふざけてんじゃねえ! もっかい時間を戻せ!」
 すると男はため息をついて首を振った。
「言ったでしょう? これが最後だって」
「俺は生きてる! この生命を使えばいいだろうが」
「無理ですよお」
「なんでだ!」
 納得できなかった。生きてるんだ。この命を使えばもう一度挑戦できるはずだ。
「さっきの逆行で弟さんが魂を使い切っちゃったんですよ。きれいさっぱりこの世から消えてなくなったんです。魂が。その時点で運命は決定され、これ以上、逆行しても弟さんの死は回避しようがなくなったんですねえ」
「そんな」
「私ねえ、わりと本気でいったんですよ? さっきの。別にこんなこと言わないであなたの魂も全部もらうこともできるんですよ。ただあなたたちの絆に免じて教えてあげたんです。いや、正直じぶんでも驚いてますよ」
 男は本当にそんな顔をしていた。信じられないものを見たような。
「せっかく儲けた命でしょう? 無駄にすることはないんじゃないですか」
 そう言って男は笑うと雲のようにかき消えてしまった。
 霊安室には俺と俺の弟の死体。
 俺は泣いていた。
 白いひざしのてりつける暑い夏の日、弟が死んだ。

 

sage
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